アイアム WEL KAME 侍 です。 
日置市吹上の伊作から、伊作のラストサムライ「黒川どん」の武家屋敷《黒川どんげえ》のご案内です。

【黒川どんげえ】 黒川どんげえは、1500年代…伊作島津家忠良(日新公)や貴久公、戦国島津四兄弟などが活躍した戦国時代から続く名門「黒川どん」が住んだ武家屋敷です。
 現在建っているのは、江戸時代に建てられた築200年を超える、上級階級武士の生活が垣間見れる立派な武家屋敷ですが、、、、、、空き家になって数年、草木に覆われて存在も危ぶまれる状態でした。
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《黒川どん・黒川幸吉》
【伊作侍の隊長】 黒川幸吉さんは、幕末から明治維新期にかけて、薩摩藩の伊作郷と加世田郷の武士で編成された外城二番大隊の伊作隊の隊長で、戊辰戦争では西郷さんと一緒に新政府軍として、鳥羽伏見の戦いで新撰組を擁する旧幕府軍と戦い、越後長岡城の戦いなどでは、長岡藩や会津藩などの旧幕府軍と戦うなどしました。
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【西郷さんと伊作】越後(新潟)の激戦では、外城二番大隊に多くの死者が出ましたが、その中には西郷さんの実弟の西郷吉二郎(隆広)さんや、一緒に戦った多くの伊作隊の武士がいました。
 そのため、西郷さんは伊作の地に愛着があったとのことで、何度も伊作へ来られていますが、吉二郎さんの命日(吉二郎さんと一緒戦い、亡くなられた沢山の伊作隊の方々の命日でもあります)にも伊作へ来られて伊作隊の方々の家を回られていたそうです。
 黒川隊長も西郷さんと屋敷で語り合ったり、隊員の家を案内されたりしたと言われます。
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 【西南戦争・ラストサムライの戦い】明治10年に西南戦争が起こると、黒川幸吉さんは雷撃一番中隊長として伊作の士族を率いて、熊本へ向け出兵しました。
 最新式の武器を装備した政府軍に対して、薩軍の雷撃一番中隊は怯む事なく突き進みましたが、次第に押し戻され、撤退戦で山江(熊本県人吉と八代の間の山奥)で、若い隊員たちの制止を振り切って、黒川中隊長は1人で刀を振り上げ大声で叫びながら、捨てがまり(迫ってくる敵に対して死ぬまで戦い、敵を足止めして味方を逃がす薩摩の戦法)で政府軍に突撃して壮絶な最後を遂げたと、後に伊作村の村長が黒川幸吉さんの墓石に刻んでいます(享年40歳) その後、生還できた伊作隊の中には、のちの伊作小学校の校長や、伊作村の村長もいました。
【黒川どんげえ】まさに伊作のラストサムライと言える、黒川幸吉さんの屋敷の中は、上級武士だけに許された赤漆喰の塗られた大部屋や、広い土間や釜戸、謎の屋根裏部屋や、床下から裏山へと続く秘密の抜け道などが当時のまま残っていました。

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黒川どんげえの敷地の草木の伐採や、造成に、地域の皆さんが手伝ってくれました。

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(今年の5月、草刈りを始めた頃は、どこから手をつけていいのか分からないくらいでした)
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(気合を入れて、草刈り中)
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(右が武家門、左の木の奥には屋敷がある・・・のですが、ほぼ見えません。。。)
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(ほぼ同じアングルの1か月後、6月の様子です)
 
 敷地内には、当時は偉い人しか通れなかったであろう通用口のある武家門や、今でも使える井戸や手水鉢、巨大な御神木に守られた氏神様なども残っており、当時の伊作侍の生活が垣間見れます。
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武家屋敷や武家門の整備が進み、沢山の人が見学に来たり、手伝いに来たりしてくれました。
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伊作地区のさるっもそ会
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時には小牧自治会の憩いの場となり
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武家門の塗装を手伝ってくれた小学生たち
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ちょうど転がっていた石が、高い所の塗装に活躍!
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武家門の両側には、昔あったと言われる竹垣を、沢山の人の協力で再現しました
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この部屋で西郷さんと黒川幸吉さんはどんな話をしたのだろうか・・・
 どんな気持ちでこの門をくぐって伊作から出撃して行っただろうか・・・





・・・・そして12月26日(日) 11:00  黒川どんげえの門が、開かれます!

1213黒川どんげえチラシ 
黒川どんげえ駐車場地図