
小松家(禰寝家)の神社。祭神は禰寝重長だ!
■マニフェスト
しっかり祈願できるような仕組みの構築と楽しめるコンテンツ設置を目指します。
(禰寝家を歴史も学べるコンテンツ)
市指定史跡
祭神は禰寝(ねじめ)家16代右近大夫(うこんたいふ)重長(しげたけ)。
重長は大隅地方に勢力を振るい剛勇の聞こえ高く、善政を布いたため慕われたという。
その子重張(しげひら)は小根占から吉利領主に移封されたのでここに鬼丸神社を建立して父の霊を祀った。
実は、この鬼丸神社も八幡神社と同じく「せっぺとべ」の聖地なんです。
吉利領主に移封された禰寝重張は、なんと島津義弘公とともに関ケ原の戦いに従軍している。
島津の退き口の際には、激戦の末、義弘本隊とはぐれてしまい、徳川方に捕らえられてしまう。
様々な追及をうけるも最終的に、解放され、吉利の地に無事生還。
禰寝重張の帰りを義弘公は大変喜んだのだという。
鹿児島三大行事「妙円寺詣り」は、関ケ原の戦いにおける島津の退き口を偲び始められたもので、吉利からも毎回参加している。
徳重神社へ向けて歩いている道中、妙円寺詣りの歌を歌いながら歩くのですが、吉利地区の団体は、徳重神社付近に差し掛かると、吉利地区のみで歌い続けられている「慶長5年の歌」を歌う。
これは、吉利地区が、「関ケ原の戦い」「島津の退き口」において「特別」な存在であることを示しているのだと感じている。
まあ、それはそうだと思うなぁ~。
あの伝説の「島津の退き口」の当事者であったのだから。
しかもさらに感慨深いのは、この禰寝家が姓を小松と変え(戻した?)
その子孫となる小松帯刀が江戸末期「徳川の世に終止符を打つ」原動力となっていること。
この因縁にはちょっと心が熱くなりますね。
このようなエピソードも想像しながら、鬼丸神社に遊びに来てみてください。
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