敵中突破の立役者!島津豊久公ここに眠る!
■マニフェスト
しっかりお詣りできるような仕組みの構築と楽しめるコンテンツ設置を目指します。
(島津豊久公を学べるコンテンツ)
天昌寺は、元中2年(1385)に石屋禅師が建立。
日向佐土原城主島津豊久公は、関ヶ原の戦いで伯父の島津義弘公を守って戦死。
そうです。あの「島津の退き口」です。
屏風中央、島津軍があります。井伊の赤備目立ちますね。
豊久公の遺臣は永吉に移住、豊久公の墓をここに建てています。
天昌寺は以後、永吉島津氏の代々の菩提寺となっていました。
豊久公は、島津四兄弟末弟の家久公の息子。
あの軍神家久公の息子なんです!!
やはり天才的な戦術など天性のものは父譲りなんでしょう。
数々の武功を挙げています。
初陣は、あの奇跡の大勝利となった「沖田畷の戦い」。
3万の龍造寺軍に対し、7千ほどの島津・有馬連合軍で挑んだ戦い。
この戦いで、龍造寺隆信本人の首をとるという大勝利をあげます。
この戦いに挑む際、父家久は初陣する息子豊久の兜の緒を固く締め直すと、忍ぶ緒を切ったのです。
これで自分では緒をほどけない。
お前が今日討ち死にしても、龍造寺の兵がこの緒を見れば
『島津の若者は、二度と兜を外さぬ覚悟で出陣している』
と、お前の心意気を賞賛するだろう。
もしも生きて戻れたならば、父が兜を外してやろう。
必ず生き延びるのだぞ ・・・!
14歳の息子に対する英才教育!!!
痺れます!!!
現在、豊久公は、大変人気のある武将として若者を中心に知名度が高くなっています。
この島津豊久公人気に火をつけたのが漫画「ドリフターズ」です。
よかにせですね。実際、史実でも「美少年」と伝えられています。
妙円寺詣りのポスターにも起用した時があります・
話は、関ケ原の合戦の終盤から始まります…
そう、まさに「島津の退き口」決行からストーリーが始まるのです!!!
アニメ化もされ、このシーンを何度見たことか。
井伊直政と対峙するシーンは激熱!!!
捨て奸(すてがまり)を繰り出す「死兵と化した薩摩隼人の鬼の形相」を妄想してしまいます。
こんなこと考えてしまうのは不謹慎なのかもしれませんが、「決死の覚悟で挑む」って、自分のリミッターを完全に解放することであって、自分の持つ力の「本当すべて」を出し切ることなのだろうと思ってます。
振り切った時の薩摩隼人は最強…島津の退き口や戦国島津のことを考える時、最終的にはその考えに落ち着きます。
YouTubeチャンネル「ひおきとTV」で紹介してます。
(5) ひおきの歴史と描かれた世界。 - YouTube
ぜひ、「お豊」のお墓参りにお越しくださいませ!!!
\ 投票は8/31(水)まで! /
あなたの投票が、日置の未来を決める!
↓↓↓ 投票はこちらから ↓↓↓
コメント