※この記事は2019年10月に行われた、島津義弘公没後400年記念事業「蘇る戦国-Sengoku Come Back-」である。
日置市では毎年10月第4土日に「妙円寺詣り」が行われている。
鹿児島三大行事の一つであり、江戸時代から続く歴史行事となっている。
島津義弘公没後400年を記念し、IKUSAによるチャンバラ合戦「ひおきの乱」や島津の退き口を描いた演劇公演「生還 -島津と燃ゆる武士達-」が行われた。
ひおきの乱の模様はこちら
当日の締めは「妙円寺詣り -島津の大行列-」。
あの妙円寺詣りに一般で参加できるというもの。
鎧兜を身にまとい、伊集院の街を徳重神社まで練り歩くというビッグイベントだ。
全国の時代行列は一般参加の募集が多い中、妙円寺詣りはその歴史的背景から一般募集が行われていない。基本的には日置市内の団体がこの時代行列を執り行っているようだが、今回はなんと外部の人間が参加できるというプレミアムな体験が組まれていた。甲冑は借りることもできたが、今回は自前の甲冑で参戦した。
出陣する薩摩生まれの甲冑。
昔の武家ならば、一家に一領甲冑があり、それを着て参加していたと言うが、令和の時代に甲冑一式を持ち合わせているのは珍しいだろう。
それでも、失われつつある足跡を、残し伝えていく。たとえ時代が人が変わっても、これからも続く一生の命題であると思う。
令和元年から動きだした日置市の戦国島津プロジェクト。コンセプトは「武将になれるまち」だ。この後にオープンするよしとし軍議場をはじめとして、武将を体感できるまちとして、甲冑を50領余導入している。
いずれの甲冑もすべて、鹿児島県内でつくられたものだ。現代へと受け継がれる技術、精巧さには思わずはっとさせられる。
一般参加者の甲冑が並んでいる
島津豊久公と島津義久公の甲冑
御大将 島津義弘公の甲冑。お稲荷様の前立ても健在
持ってきた甲冑を並べた
抽選で大将甲冑が着られるという。義弘公とか一生の思い出モノだろう。
これらの甲冑はひおきPR武将隊の武将甲冑であり、その写しをよしとし軍議場で着ることができる。
比較写真。普段はソリッドな見た目。
妙円寺詣りが他の武者行列と違うところが、武者は陣羽織を着けない。
また面頬※を着ける武者が圧倒的に多いことだ。そう言った地域ごとの違いもまた興味深い。
※顔を護る防具のこと。髭がついており、鬼や手練れの武者に見せて相手を威圧する効果がある。見た目のかっこよさから、面頬を着ける甲冑武者も一定程度いる。
武者同士の記念撮影
武者が記念撮影という、なんだか時空を超えたような違和感に包まれながらも、準備が整うと徳重神社の方向へ歩いていく。
鎧を着た武者がぞろぞろと集まってくる
待機。ここではまだ緩い空気が流れていた
いよいよ出陣
雰囲気が一変したのは、太鼓の音とともに、大勢の武者が歌を歌いながら行軍してきた時だった。
代々受け継がれた本歌の甲冑で、明らかにこれまでと雰囲気が異なる。
背中にはススキを負う。
表情は厳しく、辺りを舐めるようにゆっくりと足を進めている。
唸るような、低く渋い、歌が聞こえる。
これまでのお試しとか体験とか、そう言った生ぬるい雰囲気は一気に払拭された。
令和の街並みが戦国の戦さ場へと変わる。
真打である「武者行列保存会」の登場
ゆっくりと十月の陽が落ちていくと、
辺りは少しずつ冷えこんでいく。
されど、祭事の本番はこれからだ。
地元の保存会、公演を行った劇団、と甲冑を纏った武者が列を成していく。
明くれど閉ざす 雲暗く
すすきかるかや そよがせて
嵐はさっと 吹きわたり
万馬いななく 声高し
妙円寺詣りの歌が何処からともなく聞こえてくる。
武者が口々に、思い思いに歌っている。
二十二番まである長い歌だ。
関ヶ原からの退き口をこの長い歌に込めている。
甲冑武者、丸十字の家紋入りの陣羽織を羽織った人が並ぶ。子供も並ぶ。
いつからか沿道には多くの人が集まっている。
辺りは区別がつかなくなるほどの闇に包まれる。
兜の目庇と面頬の隙間から映るのは、篝火が灯す街並み。
ゆらりと意識が揺れる。
すっかり暗闇に落ちた街並みに、しばらくの間、長年受け継がれてきた歌と甲冑を打ち鳴らす音が聞こえていた。
神之川を渡り、鉄道の高架をくぐると、まもなく目的地である、徳重神社に着く。
普段は閑散とした境内も、この日は人という人で埋め尽くされている。
境内の階段を登るとそこが終着点。
ゆっくりとその時を迎えていく。
宵の闇に包まれる伊集院の街並み。それでも十字の紋がくっきりと浮かぶ
市役所に戻るときに、義弘公の甲冑を着ていた方と話した。
今回で二度目の参加だと言う。
前回は、と聞くと二十余年前らしい。
そんな貴重な経験ができたことに感謝したい。
翌日は徳重神社に再度赴き、参拝した。
妙円寺詣りは二日間あり、この日も武者行列があり、最後に本殿で祭文奏上が行われる。
その模様はまた何処かで書きたいと思う。
翌日も参拝。すごい人波だった。
スタンプラリーで、日新公のポストカードをいただいた。
日置市では毎年10月第4土日に「妙円寺詣り」が行われている。
鹿児島三大行事の一つであり、江戸時代から続く歴史行事となっている。
時は1600年。天下分け目の戦いとして知られる関ケ原の戦いの折、豊臣方として戦った島津勢は徳川方の敵中を突破し帰鹿を果たしました。鹿児島城下の武士たちは往時の苦難をしのび、いつからともなく妙円寺詣りとして参拝するようになりました。当日は鎧冑に身を固めた勇壮な武者行列のほか、市内を代表する民俗芸能などが披露され県内各地から多くの人が訪れます。【日置市ホームページより引用】
島津義弘公没後400年を記念し、IKUSAによるチャンバラ合戦「ひおきの乱」や島津の退き口を描いた演劇公演「生還 -島津と燃ゆる武士達-」が行われた。
ひおきの乱の模様はこちら
当日の締めは「妙円寺詣り -島津の大行列-」。
あの妙円寺詣りに一般で参加できるというもの。
鎧兜を身にまとい、伊集院の街を徳重神社まで練り歩くというビッグイベントだ。
全国の時代行列は一般参加の募集が多い中、妙円寺詣りはその歴史的背景から一般募集が行われていない。基本的には日置市内の団体がこの時代行列を執り行っているようだが、今回はなんと外部の人間が参加できるというプレミアムな体験が組まれていた。甲冑は借りることもできたが、今回は自前の甲冑で参戦した。
出陣する薩摩生まれの甲冑。
昔の武家ならば、一家に一領甲冑があり、それを着て参加していたと言うが、令和の時代に甲冑一式を持ち合わせているのは珍しいだろう。
それでも、失われつつある足跡を、残し伝えていく。たとえ時代が人が変わっても、これからも続く一生の命題であると思う。
令和元年から動きだした日置市の戦国島津プロジェクト。コンセプトは「武将になれるまち」だ。この後にオープンするよしとし軍議場をはじめとして、武将を体感できるまちとして、甲冑を50領余導入している。
いずれの甲冑もすべて、鹿児島県内でつくられたものだ。現代へと受け継がれる技術、精巧さには思わずはっとさせられる。
一般参加者の甲冑が並んでいる
島津豊久公と島津義久公の甲冑
御大将 島津義弘公の甲冑。お稲荷様の前立ても健在
持ってきた甲冑を並べた
抽選で大将甲冑が着られるという。義弘公とか一生の思い出モノだろう。
これらの甲冑はひおきPR武将隊の武将甲冑であり、その写しをよしとし軍議場で着ることができる。
武者がぞろぞろと市役所前の広場へと集まる。
ここでまず起こるのが「誰が誰なのか分からなくなる」現象。
中央と左の武将は何となく誰か分かると思うが、右の方は誰か分かるだろうか。
比較写真。普段はソリッドな見た目。
妙円寺詣りが他の武者行列と違うところが、武者は陣羽織を着けない。
また面頬※を着ける武者が圧倒的に多いことだ。そう言った地域ごとの違いもまた興味深い。
※顔を護る防具のこと。髭がついており、鬼や手練れの武者に見せて相手を威圧する効果がある。見た目のかっこよさから、面頬を着ける甲冑武者も一定程度いる。
武者同士の記念撮影
武者が記念撮影という、なんだか時空を超えたような違和感に包まれながらも、準備が整うと徳重神社の方向へ歩いていく。
鎧を着た武者がぞろぞろと集まってくる
待機。ここではまだ緩い空気が流れていた
いよいよ出陣
雰囲気が一変したのは、太鼓の音とともに、大勢の武者が歌を歌いながら行軍してきた時だった。
代々受け継がれた本歌の甲冑で、明らかにこれまでと雰囲気が異なる。
背中にはススキを負う。
表情は厳しく、辺りを舐めるようにゆっくりと足を進めている。
唸るような、低く渋い、歌が聞こえる。
これまでのお試しとか体験とか、そう言った生ぬるい雰囲気は一気に払拭された。
令和の街並みが戦国の戦さ場へと変わる。
真打である「武者行列保存会」の登場
ゆっくりと十月の陽が落ちていくと、
辺りは少しずつ冷えこんでいく。
されど、祭事の本番はこれからだ。
地元の保存会、公演を行った劇団、と甲冑を纏った武者が列を成していく。
明くれど閉ざす 雲暗く
すすきかるかや そよがせて
嵐はさっと 吹きわたり
万馬いななく 声高し
妙円寺詣りの歌が何処からともなく聞こえてくる。
武者が口々に、思い思いに歌っている。
二十二番まである長い歌だ。
関ヶ原からの退き口をこの長い歌に込めている。
甲冑武者、丸十字の家紋入りの陣羽織を羽織った人が並ぶ。子供も並ぶ。
いつからか沿道には多くの人が集まっている。
辺りは区別がつかなくなるほどの闇に包まれる。
兜の目庇と面頬の隙間から映るのは、篝火が灯す街並み。
ゆらりと意識が揺れる。
すっかり暗闇に落ちた街並みに、しばらくの間、長年受け継がれてきた歌と甲冑を打ち鳴らす音が聞こえていた。
神之川を渡り、鉄道の高架をくぐると、まもなく目的地である、徳重神社に着く。
普段は閑散とした境内も、この日は人という人で埋め尽くされている。
境内の階段を登るとそこが終着点。
ゆっくりとその時を迎えていく。
宵の闇に包まれる伊集院の街並み。それでも十字の紋がくっきりと浮かぶ
市役所に戻るときに、義弘公の甲冑を着ていた方と話した。
今回で二度目の参加だと言う。
前回は、と聞くと二十余年前らしい。
そんな貴重な経験ができたことに感謝したい。
翌日は徳重神社に再度赴き、参拝した。
妙円寺詣りは二日間あり、この日も武者行列があり、最後に本殿で祭文奏上が行われる。
その模様はまた何処かで書きたいと思う。
翌日も参拝。すごい人波だった。
スタンプラリーで、日新公のポストカードをいただいた。
この記事が投稿された9月14日が旧暦で云う、妙円寺詣りの日だ。毎年、この日が来るたびに誕生日のように嬉しく思う、特別な記念日である。
結びに…
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