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本記事は鹿児島県日置市・岐阜県不破郡関ケ原町兄弟盟約60年記念記事である。

今回は番外編である。



これまでの薩摩の足取りはこちら


甲冑武者の足取りはこちら



実は前編で烏頭坂の島津豊久碑と島津義弘陣の間に訪れた場所がある。西軍の武将の碑だ。

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垂井城主 平塚為広公の碑。主である大谷吉継公への別離の歌は今もなお、多くのファンの心を打つ

東海道線を米原方面に並行して歩き、東海道線の高架をくぐると、西軍の武将である平塚為広公の碑がある。

君がためすつる命は惜しからじ
終にとまらぬ浮世と思えば


(訳)君のためならばこの命を捨てるのも悪くない。この世で永遠に生きられる訳ではないから。

病で立ち上がれず、目も見えなかったとされる大谷吉継公。彼を守るように陣を構え、代わりに陣頭指揮を執っていたと言われる。
小早川の裏切りに勘付き、松尾山に向け陣を構えていたと言われるが、次々と寝返りが起き、抑えきれずについにはその大群の東軍の波に呑まれてしまう。そんな最期を悟ってか、大谷吉継公に別離の歌を送っている。

大谷吉継公もそんな彼に次の返歌を送ったとされる。

契りあらば六の巷にまてしばし
おくれ先立つ事はありとも


(訳)もし来世でも縁があるのなら、その入り口で待っていてほしい。遅かれ早かれ私もそこへ行くだろう。

主従を超えた絆に、来世も巡り合わんことをただ、願わずにはいられない。

詳しいエピソードはこちらを見てほしい。



雨は上がったが、まだ辺りは霧に包まれている。まるであの日の戦を思い起こさせるかのように。

藤川台から山に入る。軽いトレッキングコースになっており、10分ほど歩くと、辿り着いた。

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大谷吉継公の墓だ。
雨が再び降り出し、雨音が静寂な森の中に響き渡る。傘はささずにそっと手向けている花に腰を落とす。雨ならばより心を落ち着けられる。綺麗に整備され、いつも新たな花が手向けられている。ここにくるといつも雨が降りそそぐ。

手を合わせていると、遠くから足音が聞こえてきた。次の来訪者のようだ。そっとぬかるんだ足元に気を配りながら立ち上がった。

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家臣に伴われ、今は静かに眠る

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ひっそりとした山の中でも、訪れる人は多い

関ヶ原の戦いと聞くと、石田三成を思い浮かべるだろう。彼を知ると次に浮かぶ武将は、三成に過ぎたるものとして挙げられる島左近、そして次に大谷吉継公だ。

彼とのエピソードは事足りない。
武将JAPANより

東洋経済より


秀吉に100万石の軍勢を預けて戦わせたいと言わしめたほどの知将である。かつての領地はここから北にある、敦賀(福井県敦賀市)とされる。

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敦賀は穏やかで何処かお洒落な港町であった

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首塚とされる場所(滋賀県米原市)

関ヶ原への西軍への出陣も当初は否定的であったとされる。それでも盟友である三成にわずかな望みをかけるかのように参戦したとされる。
…家康との関係はこの上なく大切だ。でも、この者はこのまま放ってはおけない。私はこの先そう長くはないだろう。太閤殿下なき後の豊臣の世を守るための道を、不器用にもただ一途に探った結果、私を頼ってきたのだろう。それならば、この残された武運をこの者に賭けるのも良いだろう。
解釈は多種多様であるが、本当は大切な盟友のため、誰かのために命運を尽くすその姿に心打たれる者も少なくはなかろう。

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松尾山の小早川陣を睨む。今は東海道線と新幹線が駆け抜ける

定められていたのかもしれない、小早川の裏切りによる裏切りにより、寝返りが雪崩れのように相次ぎ、ついには陣が呑まれる直前、彼は自刃という終の道を選んだ。
彼の首についてはまた敵味方を超えた、アナザーエピソードがある。詳細は前述のリンクを見てほしい。
裏切りや駆け引き、調略や騙し討ちが常となるこの時代に、心が洗われるようなエピソードが並ぶことが珍しい。
現代も当時と対して変わらない。イマだけカネだけジブンだけな世界。
疲弊しきっているこの世の中だからこそ、心打たれ惹かれ止まないのかもしれない。

山を下りると雨は上がり、陽が差し込んできた。
次は一大拠点、笹尾山だ。

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笹尾山。言わずと知れた西軍の一大拠点
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この馬防柵は定期的に交換される

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馬防柵から辺りを見渡す

笹尾山は展望台になっており、ひっきりなしに観光客が訪れていた。週末にもなると武将がおもてなしとPRで訪れる。

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宇喜多秀家公の陣跡も訪問。実は薩摩と深い関わりが。

関ヶ原古戦場記念館の展望台に登ると、紅葉した山々を見ることができた。合戦場がまるごと大パノラマで見られるのだからこれほど贅沢な気分になれるのも良い。

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秋の関ヶ原の景色が並ぶ


さて、最後に、島津の敵中突破のルートがどのようになっているか、見てみよう。

伊勢街道へ抜ける途中、徳川の陣をかすめ、追う井伊直政とタイマンで遠ざけていったという。
ちょうど関ヶ原古戦場記念館のすぐ脇が徳川の陣である。
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左が古戦場記念館、右が徳川陣(幟旗参照)

ここを左に曲がると東首塚に辿り着き、その先が井伊陣である。

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東首塚の先が井伊陣。なお右手が関ヶ原駅方面への跨線橋。

現在の街並みに合わせ、当時の足跡を辿るのもまた歴史の醍醐味だ。是非関ヶ原に行った暁には、彼ら関ヶ原で戦った武将の足跡を辿って欲しい。何かしら得られるものがあると思う。

関ヶ原は今もその足あとが数多く残されている。今後も史跡として、街並みの一部として残って欲しいが、これらに関わる人々の心のつながりが今後も続いていくことを心より願いたい。

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ボランティア甲冑武者が観光客をもてなす



大谷吉継の墓
〒503-1542 岐阜県不破郡関ケ原町藤下678−2


大谷吉継陣跡
〒503-1542 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原 山中32


笹尾山・石田三成陣跡
〒503-1501 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原4008




結びに…

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